13 June 2020

Cristobal Young, The Myth of Millionaire Tax Flight

億万長者の税目的による移住は,統計的には小さな規模でしか観察されない。このことを実証する研究。
How Place Still Matters for the Rich
SERIES: STUDIES IN SOCIAL INEQUALITY
2017

【概要】本書のリサーチ・クエスチョンは,《グローバル化時代において豊かな人とその人が住む場所にはいかなる関係があるか》である。つまり,「可動性のある富豪mobile millionaire」なのか,「埋め込まれたエリートembedded elites」なのか。本書の答えは後者である。
 まず,米国の各州の間で富豪がどの程度移住しているかを,1999年から2011年の所得税申告データ4500万件をもとに実証。その結果,低所得者のほうが高所得者よりもひんぱんに移住することや,個人所得税が高い州と低い州の間での移住が統計的には小さいこと,結婚し・子どもがいて・働いている場合に移住しにくいこと,などが示される。
 つぎに,国際的な移住について,フォーブスの2010年富豪番付1010人をもとに検討する。その結果,富豪は生まれた国に住み続けるのがほとんどで,課税目的で移住する数は統計的には小さく,移住する時期は子ども時代・キャリア前・成功後,といったことが示される。移住する代わりにオフショアに資金を隠すのではないか,という仮説についても,所得税のない湾岸諸国の富豪がオフショア口座の上顧客であることなど租税以外の目的を強調。結局,富豪の5-6%がmobile elitesで,グローバル金融資産の5%が課税目的でオフショアに置かれる,と結論。
 ではどうして富豪にとって場所が意味をもつのか?それは,所得がどこに住むかに依存するからだという。つまり,場所に基盤をもつ人的資本や,社会的資本が特定の場所に集積しており,そこに住んでいるからこそ富を稼得し維持できる。だから,シェンゲン条約以後も西欧諸国間での移住は起きなかったし,NAFTA以降も米国市民はメキシコに移住しなかった。
 こうして本書は,米国の州が所得税の最高税率を引き上げること(millionaire taxes)は,多くの人の通念に反し,富豪の深刻な州外逃避を引き起こすわけではないとする。

【コメント】この話こそが,HNWIの課税を考える上で一番知りたいこと。富豪がどこまで可動なのかによって,所得税の最高税率の設定や,税制全体の累進度の設計が,大きく違ってくるからだ。
 そして私たちは,スポーツ選手やロックスターの国外移住といった華やかなアネクドートを耳にするたびに,「ああ,豊かな人はこんなに簡単に国境を越えて移住するのだ」と思ってしまう。日本でも武富士事件やユニマット事件など,裁判例に登場する国外転出事例の印象がとても強い(日税研論集74号85頁以下を参照)。
 本書はこれに対する反証を提示している点で,きわめて注目される。米国の州間の移住に関する実証は,所得税申告データをもとにしていて,なかなか説得力がある。国際的な移住に関する話は,今後深堀りが必要だろうが,Forbesのリストからできるところまでやってくれた,という感じ。2017年12月にLSEで本書に関するシンポジウムがあり,評者が「英国でもここまでの実証研究ができていない」とコメントしてる。
 何よりも,富豪も人間だから,個人としての生活があり,ライフサイクルがある。人的資本を蓄積し稼働させることができる場所が限られていること。文化的適合性や情報交換にとって「その都市」が大事であること。だから移住する場合が限られる。この説明は直感的にしっくりくる。
 もし本書の主張が正しいとすれば,その租税政策に対する含意は普遍化でき,かなり大きいものになる。私は日本の税制に関心があるので,まずは日本のデータを対象にした良い実証研究があったら,教えてほしいものだ。東京23区とそれ以外の移動とか,富裕層の出国・入国とか,何らかのデータはありそうなのだが。
 それに,コロナ以後はどうなのか。もし国境を越える人の移動が制限され,オンラインで働くことが新常態になったとしよう。そうなったら,富豪の移住動態にはどう影響するのだろうか。租税政策にとって重要なことが,今後の究明を待っている。
Cover of The Myth of Millionaire Tax Flight by Cristobal Young