羽村から四谷まで、はるばると玉川上水がひかれたのが、承応2年(1653年)のこと。江戸の人口が増える中、上水道が必要だった。水道経営にあたり、玉川兄弟の家が水銀を徴収した。水銀と書いて「みずぎん」と読む。水銀は、江戸の給水区域の武家と町方が支払った。
この水銀の性質について、伊藤好一・江戸上水道の歴史(吉川弘文館1996年)94頁(→この本の書評)は、受益者負担の水道料というだけでは説明しきれず、年貢の徴収権(知行高)とみる可能性を示唆している。その理由は以下。
- 町方では、町で上水を利用しない者があっても、表屋敷を持つ限り水銀を支払った
- 武家では、上水を引き取らなくなっても、水銀を負担しなければならなかった
- 水銀は水上修復料として徴収することを許されていたが、水道普請については水銀とは別に普請修復金を徴収していた
- 由来として、玉川家が水道完成の恩賞として200石分を与えられ、それでは役を勤めるのが困難であるというので水銀の徴収に変えられた(ただしこの200石分が知行高であるのか切米高であるのかが問題であると指摘されている)
請負人が税金を徴収する。公権力なのか民間主体なのかがあいまいな代官的豪商。こういう興味深い状況が近世初期には存在したというのである。
その後、幕府の官僚機構が整備されていく中で、元文4年(1740年)、玉川庄右衛門と清右衛門は玉川上水水役から罷免される。江戸の上水支配は玉川兄弟の子孫から取り上げられ、水銀は公金として幕府の金蔵に入るようになった。